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相続と不動産のパーソナルアドバイザー 税理士 兼 弁護士_中澤剛のプロフィール

このブログの著者、相続と不動産のパーソナルアドバイザー 税理士 兼 弁護士

中澤剛(なかざわごう)

のプロフィールです!

経歴等

茨城県つくば市出身

両親と兄、妹の5人家族の次男として生まれる。

つくば市立手代木南小学校、つくば市立並木中学校、茨城県立土浦第一高等学校卒業。

東京大学運動会(体育会)ボート部副将を務める

東京大学法学部 卒業

北海道大学ロースクール 卒業

2010年 弁護士登録  第一東京弁護士会所属(登録番号42958)

2013年 日本橋淡青法律事務所(淡青税務法律事務所の前身) 設立

2018年 税理士登録(登録番号139500)

2021年 淡青税務法律事務所に改称

家族

のんびり屋の妻、とんち(おかしな)話の読書とゲームが好きな長男(9歳)と陽気でお茶目な長女(7歳)の4人家族。

先日、妻が子どもの前で、「お父さんが頑張ってくれているおかげでみんながご飯を食べられるんだよ」等と言ってくれたのを目撃(耳撃?)し、感動しています。

好きな言葉

「天地(あめつち)の恵みと 多くの人々の働きに感謝して 命のもとを 謹んで頂きます」(ご飯を頂く時に)

「今日は最良の一日、今は無二の好機」(丸山敏雄氏)

「仕事と思うな!人生と思え!」(原田隆史氏)

「政事上の実況は、実に実着なる真面目なる男児の乏しきを覚え、ますます良心の全身に充満したる丈夫の起こり来たらん事を望んで止まざるなり」(新島襄氏)

趣味

音楽鑑賞( B’z 光芒 パーフェクトライフ ベートーヴェン 運命、月光  ショパン 別れの曲、英雄ポロネーズ など)

今までクラシックは高尚でどこか気取っていて自分には縁がないと思っていましたが、コロナ禍で在宅中に、辻井伸行君のピアノを聞いてクラシックに目覚めました(笑)

2022年から、ピアノの練習を独学で始めました。バイエルからスタートしています

朝活 早起きすると、1日が充実します。1日が充実すると、人生がよくなります。

平日は基本4:30に起床、6時からオンライン朝活をしています。

 

ダイエット  一進一退を繰り返す・・・

勉強 「なるほど」と知る喜び、何かができるようになる喜び、そして学んだことを通じて人に喜んでもらえるという喜びがあります。学ぶことは楽しい!

子ども達にも「勉強は楽しい」と洗脳しようと試みていますが、全くうまくいっていません(笑

 

スノーボード 下手の横好きです

 

苦手

カラオケ(歌うのは好きなのですが、音痴なので辛いです。。。)

 

好き

真面目に生きる人

一生懸命に生きる人

困難に挑戦する人が好きです。

自分の心の声に真っすぐに生きている人が好きです。

母校ボート部を応援しています

弁護士になった理由

頑張る人や企業を応援したい、というのが根幹的な理由です。

長いのですが、よろしければ「生い立ちなど」をご覧ください

 

主要扱い分野

人にとっての幸せの根源・礎である、「家族」という領域に注力しています。

具体的には、相続(生前対策としての遺言・信託・後見も含む)・離婚という分野です。

税理士として税金の、弁護士として法律の、税金と法律両面からの対応をしています。

また、相続や離婚と同時に発生することの多い不動産の領域にも力を入れています。

2023年の目標

・「妻子を幸せにし、

ともに働いてくれる人とその家族を幸せにし、

依頼者とその家族を幸せにする」

という目的に向けて生き切る!

・身体年齢アラサー(34歳以下)の実現! 悪玉コレステロール粉砕!数値100を切る!

 

生い立ちなど

以下、私の生い立ちなどを語っちゃいます。

暗めです!?

必見です!(笑

幼少期

 

茨城県のつくば市という所で生まれました

研究者の父と、専業主婦の母の子です。

1つ上の兄と2つ下の妹。自分は次男坊でした。

 

小さいころは、元気な面と繊細な面と、両方をもっていたと思います。

 

母は愛情あふれる、温かみのある人でした。

 

父は、冗談をよく言う陽気な人でしたが、他方で、急に機嫌が変わる傾向もある人でした。子どもだった当時の自分にとって理解できないことで、突然不機嫌になることのある人でした。

何か理由はあったのかもしれませんが自分によくわからないことで突然噴火して、突然夫婦喧嘩が始まりました。小さい頃は、子どもながらに怖かった。

自分の存在が脅かされているような感じがしました。小さいころ、非常に情緒不安定だったように思います。

「父の日」に、幼稚園で、父の顔を書こうというイベントがありました。

私が書いた父の顔は、角が2本ありました。怒ると怖い、鬼を表現していました。

当時の父に対する自分の気持ちが表現されているように思います。

 

当時は、父の顔をいつも伺って生きていました。いつ、何で怒られるだろうかと。

当時は、食事の味がした記憶がありません。

 

父は、「美味しい美味しいと言ってご飯は食べるのだ」とよく言っていました。

それで、私は味もわからないまま「美味しい美味しい」と言っていました。

恐怖心とか、何かに心がとらわれてしまっていると、食事の味って、全然しないですよね。食事の味がするということは、それだけ心に余裕がある証拠です。

私はただ、口の中に食べ物を押し込んでいました。

 

私は、当時は、父に愛されていないと思っていました。

今は、実は愛されていた(今も両親は健在で、両親に愛されていることはよくわかっています)ということ、すごく分かっています。

けれど、当時はわかっていなかった。

 

そんな不安感のようなものを根底に抱きつつ、他方で、サッカーをしたり(余談ですがポジションはゴールキーパーでした)、元気一杯な面もありました。

 

根底にあるものと、表面に出るものって、随分違う。自分自身ですら、楽しい時は、根底にある不安感のようなものは意識から消えていきます。

小学生って、そんなものかもしれません。

 

中学、高校時代

問題が噴出したのは、思春期であったように思います。中学時代は、なんやかんやとごまかしながら過ごしましたが、特に高校時代は、うまく表現できませんが、ごまかしがきかなくなってきました。

 

ご多分に漏れず、私も他者の中との自分、世の中の中での自分、ということを強く意識するようになる時期です。自我が芽生える、というやつだと思います。

 

この時期、私は、親という存在に対して抱えていた不安感が、他の対人関係全てに広がったと言っても良いかもしれません。というよりも、対人関係の基礎を学ぶのは対親関係ですから、対親関係は他の対人関係にも大きな影響を与える傾向にあるのかもしれません。

 

高校時代、私は世の中に対する違和感を抱えていました。クラスの中で、笑って冗談を言っている人がいる。自分も笑う。でも何かそこが居場所ではない感覚。人と接する時の不安感。

 

自分一人だけが、異常だと思っていました。自分で言語化できない違和感。

それをごまかそうと必死で明るく振る舞おうとして、ワザとバカなことをしてみたり。それでも、ずっと自分を偽っているような感覚がありました。

 

★この頃は、「太宰治」という作家の「人間失格」という本を読んで、随分と感銘を受けました。

 

仮面をかぶってピエロとして生きている、それが自分そっくりだと感じました。

 

対人恐怖に苦しむ

高校時代は、人との違和感、そして対人恐怖に非常に苦しみました。

当時は、「人が怖い自分は異常だ」と思っていて、「そんな異常な自分を知られたら異常だと思われる」と考えていました。

「本当の自分、こんな異常な自分、化け物のような自分を知られちゃいけない」、という思いが強かった。(余談ですが、今は、「こんな素敵な自分をもっと知ってくれ!」と思っています!? 至らないところも多いけれど、けっこういいヤツなのです!笑)。

 

対人恐怖であること自体を、自分は隠そうとしました。

多くの対人恐怖の人は同じだと思うのですが、対人恐怖である自分が恥ずかしくて、人に知られたら死ぬ(ほど恥ずかしい)と思っているのです。

死ぬほど恥ずかしいことだから、絶対に知られたらいけない、そう思っているわけです。

人と接するときに、絶対に知られちゃいけない秘密を隠しながら生きているわけです。

当然、余計に不自然になってしまいます。

今なら笑ってしまえる話なのですけれど、当時は必死でした。

(今は多くの経営者の方の前でお話などをさせて頂く機会も頂きますし、この対人恐怖のことも他人に話したり、このようにネットにも掲載しているとすれば、当時の私は驚いたことでしょう)。

別に恥ずかしくもないことを、「恥ずかしい、おかしい、異常だ」と思っていたのです(これを読んでいる対人恐怖症の皆さん、必ず未来はあります!別に恥ずかしいことでもないです!愛すべき個性です!頑張りましょう!!!)。

 

当時は、苦しくて苦しくて、今のように分析することもできず、何が原因なのかもわからなくて、どうしたらいいのかわからなくて、出口がなくて、もがき続けました。

 

色々な本を読みました。

当時、「これが自分だ!」と思ったのは、「アダルトチルドレン」というものでした。

最近はあまり聞かない言葉かも知れませんが、親がアルコール依存症のような家庭(機能不全家族)で育った子どもに共通して見られる性格の傾向があり、生きづらさを抱えている大人のことです。

「自分はこれそっくりだな~」と思いました。

しかし、そう思ったからといって、じゃあどうやってその苦しさから抜け出すかというような答えを自分は知りたかった、しかし、そのようなことは、何も書いていなかったように思います。

「あるがまま」を勧める森田療法とか、EMDR(?)という何かしながら目をギョロギョロ動かすとかいうよくわからん治療法とか、藁にもすがるような気持ちで、解決策、苦しみから逃れる途をもがき探していました。

 

ちなみに、それが当時の自分なのですが、同時に、人の気持ちは全くわからない、すごい嫌な奴でした(「今もだろ」という声が聞こえてきそうですが、当社比です!)。

同じように、対人恐怖の人って、なかなか自分勝手なことが多いと思うのです(今読んでくださっている対人恐怖の方、ごめんなさい)。

でもそれはやむを得ない面があると思っていて、例えば、今、ピストルでこの文章を読んでくださっている貴方の右足をバンと撃ち抜いたとしましょう。

恐らくは、血が溢れ出て、激痛に苦しみます。

その激しい痛みに苦しんでいる状態の人は、その痛み以外のことを考えるのは容易なことではありませんよね。

当時の私は、精神面では、まさに右足を撃たれた人のように、大量の出血をして痛みに苦しんでいる状態でした。

自分の心の痛みにとらわれ過ぎていて、人の気持ちを考えることは何もできませんでした。

人の気持ちに配慮できない、自分勝手でひどい奴でした。(今はどうなんだと言われると、人の気持ちに配慮し、理解するのはやはり難しいと思っていますが、少なくとも当時よりは間違いなくマシになっている筈です・・・たぶん笑)

 

不安感を隠すための完璧主義に

根底にあった、父に認められていないという不安感。

自分は、どうしたら認められるのかを、ずっと探していたような気がします。

その答えがわからなくて、自分なりに考えたのは、「立派」な人間になることでした。

「こうじゃなきゃいけない」という何か、理想の完璧な存在でなければいけないという思いがあったように思います。

不完全な自分では愛されない、認めてもらえない。

些細なことですが、たとえば「朝寝坊したらいけない」とか。

父の気持ちが分からな過ぎて、勝手に自分でハードルを自分に作って、それを乗り越えようと努力するという、謎の努力をしていました(実際には、実はそのままで父は自分を愛してくれていたのですが、それは分かっていませんでした)。

それでも不安感は消えずに、空回りして、自分の設定したハードルに越えられないたびに、ずいぶん自己嫌悪になっていました。

 

他を責める思考に

現状の苦しさを、当時の私は、周囲のせいにしていました。

人間関係がうまくいかないのは、父母のせいだと、親のせいにしていました。

人付き合いが苦手、対人恐怖。

「自分がこうなったのは、親のせいだ」

そう言って、責任転嫁していました。

母は、そんな自分にオロオロとしてしまっていました。

そんな母に対して、とんでもない暴言を吐いてしまったこともありました。(もしも、息子が将来、同じ言葉を妻に対して述べたら、私は、人生最大級に激怒することでしょう。。。)

 

逃げ道としての勉強

人間関係に苦しんでいた私は、勉強に逃げました。

当時の私は理解力は優れていなかったのですが、根性で暗記して、それで点を取るというのは得意でした (なお、40歳を超えた今は理解力も向上してきた気がします!念のため!)。

例えば国語の漢字とか、高校の世界史とか、単純な暗記物です。これは理解力の悪かった自分でもできました(ちなみに、引っ越した後で自分の住所を覚えられる人なら、記憶力はあります。住所の情報が必要なたびに、「えーっと、なんだっけ。(メモなどを見る)、あ、そうだった」と何回か繰り返しているうちに、住所って覚えますよね。要は繰り返しの勝負です)。

こういうものは、理解していなくても、とにかく書き方なり言葉なりを覚えてしまえば、点が取れる科目でした。

理解力が良くなくても、根性で得点ができるものとして、勉強に逃げました。

余談ですが、勉強に関して、私が重視していた勉強法は、「先制パンチ勉強法」でした。

人は、新しい環境で自信を無くすということが多いのです。典型例が、中学に入学したり、高校に入ったり、そういう新しい環境での最初の中間テストで悪い成績だと、「自分はこの新しい環境下ではだめだ」と思ってしまいます。

しかし、逆にこの最初の試験で良い成績を出す事ができれば、「自分はやれる」と思えるわけです。

中学や高校の3年間の中で、中間テスト、期末テストと、1年で4回か6回、3年間で12回~18回くらいあるのではないかと思います。その全ての定期試験の中で、最も重要なテストは、間違いなく1年1学期の、一番最初の中間テストだと思います。

この最初の定期試験に全力を注ぎ、好成績を出すのです。そうすれば、「俺は本気出せばやれる」という自信がつくのです。司法試験でも、私は、短答試験という難関のマークシート試験に勉強開始後8か月程度で合格しました。これで自信を得たという面があります。ひたすら勉強しまくりましたけども。

勉強なんて、自信が全てなのです。自信を持つには、スタートダッシュが大事です。

先制パンチで精神的優位を築くこと、これは色々な新しい環境下で重要な考え方ではないかと思っています。

私は、基本的にこのようなやり方で、東大文科1類(法学部)、そして司法試験にも合格しました。

余談おしまいです。

いずれにしても、私の場合は、勉強は「逃げ」でした。

人間関係のうまくいかなさから逃れる場所として、勉強に逃げていました。もちろん、得点が上がるという楽しさも一面ではありましたが。

ですから、自分としては逃げてきただけだったので、東大に入学しても、自分を誇りに思えるようなことではありませんでした。

自分のことを知っている友人からは、「東大なんだからもっと威張れば」というようなことをよく言われました。しかし、自分では、コンプレックスの方が大きくて、自信に思えずにいました。

 

勉強しながらも、鬱状態で、布団からずっと出られず、1日ずっと布団の中という日もありました。そんな自分に自己嫌悪になります。

自己嫌悪になると、ますます動けずに、布団から出られません。

「ああ、もう昼になってしまった。自分は何をしているんだ」と思います。

そうすると、布団から出られない自分にもっと自己嫌悪になります。

そうすると、ますます動けなくなってしまうのです。

そうこうしているうちに、夕方になり、

「ああ、もう夕方になってしまった。自分は何をしているんだ」と思います。

そうして、1日を無駄にして自己嫌悪する。

本当にダメダメの無限ループですね(笑)

 

3つの転機

そんな自分でしたが、大きく3つの転機がありました。

父の日記と、母の言葉と、そして各種の心理療法です。

 

父の日記

いつの日のことだったか忘れましたが、父の仕事部屋だったと思いますが、ふと置いてあったノートのようなものを開いてみると、見慣れた父の丸い文字が書いてありました。父の日記でした。

そこに、「剛は~で大変そう」だったか何か、私のことを気にかけてくれている文章を見かけました。たしか、書いてあったのは、4~5行くらいの文章でした。具体的に何を書いてあったのかは思い出せません。しかし、私のことを気にかけてくれていることが分かる文章でした。

私はそれを見て、「父は自分を愛してくれているのだ」と、ビビっと稲妻のように理解したんですね。

そういえば、父は、私が熱を出せば、お粥を作ったり、欲しい果物が無いかと聞いて切ったりしてくれた、そんな父がしてくれていた色々なことも思い出しました。

今、自分自身が結婚し2人の子を持つ父の立場になると、子どもを愛していることなど当たり前のことですし、父親が子を愛する気持ちはすごく理解できます。しかし、当時の子どもだった自分には、全くそのことを理解できなかった。実は、いつもいつも自分を気にかけてくれていたのだと、その当たり前の事実を、やっとこのとき知ったのです。

それまでは、父を「得体の知れない生き物」、「宇宙人」と思っていた。そしてその得体の知れなさは、自分の存在への不安感に直結していたように思います。

それが、実は父が愛してくれていると知って、自分の中の根源的な不安、自分の存在が肯定されているということを実感として知って、大きく変化しました。

それ以前の自分からは、大きな変化だったと思います。

 

母の言葉

もう一つ、両親のケンカやいがみ合いに対して、自分はひどくおびえて情緒不安定になっていました。

ところが、私は、ふと、母に、父とのケンカのことを尋ねました。

そうしたら、母は、「あんなのケンカじゃないわよ」というように笑い飛ばしていました。

それを聞いて衝撃を受けました。

自分が情緒不安定になっていたのは、おそらく、両親のケンカが発展してしまえば家族はバラバラになるかもしれない、というような本能的な恐怖も一因だったのだと思います。

しかし、母はそんな可能性は微塵も考えていなかった。

 

実際のところ、私の兄や妹は、特に私のような感じ方はしていなかったようです。

父の日記や、母の言葉を通じて、私は、自分は愛されているのかもしれない、家庭も大丈夫かもしれない、というような安堵感を感じ始めたように思います。

 

各種の心理療法

色々ともがく中で、森田療法とか色々な心理療法をしたと先ほど書きました。

その中で、一番最初に大きな影響を受けたのは、アルバート・エリスという人が始めたという「論理療法」でした。

その考え方の中核は、「人の心を動揺させるのは、出来事ではない、出来事を捉える際の考え方である」、というようなものでした。ABC理論、と言ったかと記憶しています。

 

例えば、異性にフラれる、という出来事(A)があったとします。

その出来事Aが起きても、すごい落ち込む人と、あまり落ち込まない人、全然落ち込まない人、それどころか元気にってしまう人、様々なパターンの人がいます。

結果(C)として生じることは、人それぞれなわけです。

 

論理療法は、なぜそのような違いが生じるのかというと、出来事(A)と結果(C)との間に、本人の考え方なり信念(Belief)があったりするためである、というのです。

同じ出来事Aが起きても、結果Cが違う理由は、信念Bが違うためである。

極端に落ち込んだりする人は、有害な、あるいは不合理な信念Bを有している可能性がある。これらを、合理的な、健全な信念Bに変容させることができれば、より好ましい結果Cが得られる、そのような考え方であったと思います。

 

人の心に影響を与える根本的な問題は、どのような出来事が起きるのかではない、その出来事に対して、どのような考え方を持っているのかが大事なのだ、という理論でした。

 

幼少期の体験に現在の問題の原因を求めるフロイトなどの精神分析などは、詳しく勉強したわけではないのですが、何が原因かよくわからないし、結局過去は変えられないのに、その過去のトラウマのような出来事を延々と探し続けていて、どうも生産性が悪いと思いました(※あくまで個人の感想です。きっと有益な人もいらっしゃると思います)。

 

他方で、この論理療法の考え方は、まさに非常に論理的で、なるほど、と思いました

問題のあるBのことを、論理療法では、「イラショナルビリーフ」(不合理な信念)と呼んでいました。

イラショナルビリーフの代表格は、「~ねばならない」という完璧主義思考でした。

私は、当時、この「~ねばならない」という完璧主義に非常にとらわれていました。根底に不安感があったためだと思いますが、自分をなんとか肯定するために、例えば朝は6時には起床しなければならない、などと自分を追い込んでいました(今は毎朝特に苦労もせずに4:30に起床していますが!)。

しかし、この完璧主義は、うまくいけばよいのですが、結局人間は不完全なわけで、私などはうまくできずに、そのたびに自己嫌悪になっていました。かえって生産性も下がっていました。

論理療法は、たとえば早起きしなければならないというようなイラショナルビリーフに対しても、「早起きできれば好ましいが、たとえ寝坊しても、起きた後の活動によって十分様々なこと、有益なことができる。寝坊してしまっても遅くはないし、全てが台無しになったわけでもない」という新しい合理的なビリーフ(B)を持つことができるようになりました。当たり前の考え方であると思いますが、メンタルが病んでいるときというのは、このような当たり前の考え方ができなくなってしまうのです。

論理療法は、信念(B)を、極端なイラショナルビリーフ(自分を不幸にする非現実的で不合理な信念・考え方)から、普通の、常識的なものに変えていくための治療法であると認識しています。

 

認知行動療法

論理療法と同じ系列に属するものに、認知行動療法というものがあります。

アーロン・ベックという人が創始者だったと思います。論理療法の兄弟のようなものだと思います。ほとんど同じような気もします。厳密な違いは私にはわかりません。

私は、論理療法を先に知っていて、だいぶ傾倒していましたが、その後、認知行動療法に出会いました

そのため、随分と抵抗なくスッと入っていくことができました。

認知行動療法では、私が大好きなのは、「いやな気分よさようなら」という本です。

 

もう一冊は、同じ著者の、「フィーリングGOODハンドブック」です。

 

分厚い本ですが、親しみやすい文章、豊富な具体例で、多くのことが書いてあります。

私なりに理解した本書の中核的なメッセージは、「人間は不完全である。不完全であるからこそ素晴らしい。不完全な自分を受け入れ、愛しましょう」ということです。

こうして書いてしまうと、どうにも当たり前のつまらない内容に思えてしまい、私のプレゼン能力のなさに悲しくなるのですが(笑)、しかし、論理療法でも出てきた、「~でなければならない」という完璧主義的思考が人を苦しめているのだ、という発想は、認知行動療法でも同じです。

 

例えば、私などは、対人恐怖の自分、ビクビクしている自分を受け入れられずにいました。友人との間でも、女性に対しても、もっと普通に、明るく、あるいは堂々とかっこよく振る舞いたいと思っていました。(今もそのような思いが無いとは言いませんが、ショボいオッサンでも仕方ないという気持ち(諦め?笑)もあります)

当時の問題は、対人恐怖の自分を絶対に見せちゃいけない、見られては破滅だ、「僕は対人恐怖なんかであるべきではない、人と普通に接することができなければならない」そんな自己否定的完璧主義があったわけです。

ところが、論理療法も認知行動療法も、対人恐怖の例でいうと、「対人恐怖を直そうとするのもいいけれど、先にするべきことは、対人恐怖という不完全な自分を受け入れなさい、愛しなさい」ということでした(森田療法の「あるがまま」も同じ発想だとは思いますが、森田療法を学んでいたときはそのメッセージは理解できませんでした)。

「いやいや、対人恐怖の直し方を知りたいんだよ!それなのに、対人恐怖を受け入れろってなんだよ!」と思いました。

しかし、対人恐怖とか、神経症的な悩みの根幹は、対人恐怖そのものよりも、「対人恐怖を知られちゃいけない」という恐怖があるわけでした。対人恐怖を知られちゃいけない、と思うと、ますます怖くなってしまうのです

このシステムは、赤面恐怖症などというのも同じです。顔が赤くなってしまうという出来事があるとして、それを受け入れていれば、それでおしまいです。

「顔が赤くなる私、可愛いでしょ」と思えば、むしろ強みです(実際、すぐ顔が真っ赤になる人は可愛らしいですよね。赤面恐怖症の方、可愛いので大丈夫ですよ!羞恥心が無くなった我々のようなオッサンオバサンなんて可愛げゼロです・笑)。しかし、顔が赤くなることをおかしなこと、恥ずかしいこと、悩みのことと捉えていると、顔が赤くなった自分にますます当惑して、その結果、ますます顔が赤くなるという悪循環に陥るわけです。

この悪循環を断ち切らないと、なかなかよくならないわけです

先ほどの、「不完全な自分を愛しましょう」というのは、私の場合は、まずは、対人恐怖の自分を受け入れること、そこがスタート地点でした。

緊張している自分、何か自分が異常だと思っていて隠そうと思っていた自分、人の顔色を伺って生きてきた自分、情けない自分も全部受け入れる。

そうしたら、結局、対人恐怖なんか消えてしまうのです。(とはいえ、もちろん、今でも、人にあって緊張することはありますよ。その回数は、めっちゃ減りましたが。。。最近人と会って緊張したことがあったのか、いつあったか、正直、思い出せないですね・・・笑)

 

今私は弁護士(兼税理士)ですが、裁判では今でも緊張するときもあります(特に証人尋問は、1回きりの勝負で、とても緊張します)。しかし、緊張する自分に緊張することはありません。「緊張している、だからダメだ」とは自分は思いません。ああ、緊張しているな、で終わりです。裁判で良い結果が出るか否かと、自分が緊張しているか否かは全く関係ないとわかっているからです。

ある冤罪事件で、相手を尋問する日がありました。その尋問で、冤罪を証明できるか否かが決まる、そんな尋問がありました。依頼者の人生がかかっているわけで、本当に緊張し、身体が震えました。ですが、無事にその事件では無罪判決を得ることができました(パチパチパチ)。

裁判は、簡単にいうと、的確な法的な構成をして、それに必要な重要な事実を証明できて、あるいは重要な事実について相手の主張が事実でない(証拠からは認定できない)ということを明らかにできれば、それで裁判は勝てるわけです。緊張しているか否かは関係ないのです。(かえって、誠実に見えて好結果の場合もあります)。

 

進みたい道を考える

話を戻します。

自分の思春期は、まるで暗黒時代でした。

生きるのが苦しかった。

死ぬのは怖いけれど、間違って雷が落ちていきなり死んでしまえないかとか、突然車に引かれて即死できないかとか、そういう出来事が起きてくれたらラクなのに、、、と思ったことは何度もありました。(臆病な私は、自殺未遂をしたことはないですが。。。今は、自殺などはしないで本当に良かったと思っています。)

そんな私でしたが、同じように生きるのに悩んでいる子どもの力になれるような仕事をしたいと、漠然と思っていました。

同じような悩みを持つ子のために学校の先生になる、というのは、漠然と考えていたことでした

また、生きることに苦しんでいる人を助けられる、弁護士という職業にも憧れがありました。

 

苦しみを乗り越えたい、少しでも幸せをつかみたい、そう願う人に、自分という存在が役に立てたら嬉しい、自分の存在する意味、生きている意味も少しはあると思える、自分を肯定できる、そのような「勘」が働いたのかもしれません。

 

有名な高校ラグビーの監督で、不良ばっかり集まってくる(集めている?)学校の先生がいました。山口良治先生という方です。

不良たちの子どもが更生して、「〇〇がこんなに立派になってくれた」と泣きながらインタビューで話している先生でした。その隣で、言われていた〇〇という生徒がなんだか照れたような、バツが悪そうなハニかんだ様子をしていました。

その先生みたいに、誰かの人生が、地獄のような苦しみから、ささやかでも幸せのある人生に変わることに関われる、影響を与えられる、そんなことができたら素敵だなと感じていました。

 

今、弁護士をしているのは、そのような考えが影響しています。

あとは、自分が人が苦手で、サラリーマンとして複雑な人間関係下で生きていくのはとても無理だ、と考えたのもあります。逃げとポジティブと両方の理由ですね

 

大学時代 ボートの時代

漠然と弁護士というものを意識しつつ大学に入学したのですが、大学時代は、ボート部での活動一色になりました。

ボートという競技を何も知らずに入学したのですが、入学後、新入生を勧誘するテントに連れていかれて、その中で、先輩方が、大学日本一を目指して、真摯に練習に打ち込んでいる姿に心を打たれました。

温かみのある先輩方の人柄にも触れて、入部しました。

練習はとても厳しいものでした。

しかし、何かに打ち込み、苦しみを乗り越えて、一瞬の喜びを掴む。そういった姿勢に惹かれました。

自分の弱さに日々向き合わされる毎日でしたが、素晴らしい先輩方、気のいい同期、(面と向かっては言いませんが密かに尊敬する)多くの後輩たちと出会えたことが、一番の財産です。

なお、事務所名にとっている「淡青」(たんせい)は、学生時代のボート部のオールの色です。困難や大変なことがあってもそれを乗り越えて喜びや幸せを掴む、そんな組織でありたいと思っています

 

大学卒業(ボート部引退)後

私にとっては、対人恐怖というものに支配されたような思春期ではあったのですが、それを次第に克服するにつれて、やっと多少なりとも、他の人のことも考えることができるようになってきました。

このプロフィールの最初の方に、ピストルで足を撃ち抜かれた人の例えをしました。足を撃ち抜かれその痛みに悶絶している人がいたとして、その人が、自分の痛みを差しおいて周囲の人に気をつかうのは、難しいという話です。

事実、私は、心の大量出血をしていたような状態で、全く周囲の人に気を使うことができませんでした。

自分の痛みと自分の恐怖で頭が一杯でした。

 

しかし、その痛みが和らいで行くにつれて、少しずつ、周囲のことを理解することもできるようになっていきました。

 

それ以前は、私の世界の見え方は、極端なものでした。

「対人恐怖で苦しむ人と、それ以外の、対人恐怖のない幸せな人」という2つの分類です。

対人恐怖のない人は皆、悩みのない幸せな人に見えていました。

 

しかし、実はそんなことはなくて、誰もが、それぞれに生きる喜びや苦しみを抱えつつ生きているのだ、そんな当たり前のことに、やっと気づくようになっていきました。

 

私は、精一杯生きる人、懸命に生きる人が好きです。

自分自身が、もがいてもがいて生きてきました。苦しみの渦中にいて、なんとか幸せに手を伸ばそうとして、何度も絶望して、打ちのめされつつ、生きてきました。

 

もしかしたら、人生というのは、様々な課題がある中での、自分の前に立ちふさがる壁を前にしての、絶望と希望との戦いなのかもしれません。

もし、絶望した心が折れそうな人がいたら、その人にとって、希望になれればという思いがあります。くさいかも知れませんが、でも、本音です。

 

私は、クラシックは全然詳しくありません。

しかし、ベートーヴェンの第9や、「運命」(交響曲第5番)の第4楽章が大好きです。

「苦難を乗り越えて歓喜へ」。苦しみを乗り越えた先の喜びを掴むことができたら、最高だと思います。生きている甲斐があったと思えます。

 

このプロフィールは、一つには、当時の苦しんでいる自分に向けて書いています。

もしかしたら、この日本に、当時の自分と同じように苦しんでいる人がいるかもしれません。私は、苦しんでいた当時、このような文章を発見したら、きっと、無我夢中で読んだと思います。だから、そんな自分に向けて書いています。「大丈夫だよ、希望はあるよ、君は、未来は、とても幸せに過ごしているよ。懸命に生きていたら、いいことがあるよ」と伝えたい。

 

B’zというアーティストに、「パーフェクトライフ」という歌があります。

その歌詞の中で、

「何かに向かい 手を伸ばし

もがいてる その姿

それこそがパーフェクトなライフ

マイナス 掛け合わして プラスにしてしまえ!」

という歌詞があります。

 

好きな歌であり、歌詞です。

諦めや絶望する日々をやめて、何かに向かって歩き始める、その時既に、その人は、幸せの一端をつかんでいると言える気がします。

実際、そんな人生は、楽しいと思いませんか?

諦めるのをやめて、何かを目指してチャレンジする、そういう日々に、私はワクワクします。

 

子どもを持ち、父になって

社会人になってから、結婚し、2人の子どもにも恵まれました。

父になり、本当の意味で、親の気持ちというものが分かったと思います。

父として、子供のことを考えない日は一日もありません。

毎日、子どもが今幸せか、将来幸せになれるのか、と考えます。

 

こうした自分の感情を通じて、自分の父の気持ちも改めて考えます、そして、世の中にいる、父や母のことを考えます。社会というのは、人と人とで構成されています。会社や企業も、実態は、それを構成する一人一人の人でしかありえません。

そして、その人は皆、もとは誰かの子であり、その中の一部は、今は誰かの親であったりもするわけです。そうして、多くの人が、壁や苦しみ、困難に直面しつつ、それを乗り越えようと奮闘しているのです。

 

昔の視野の狭すぎた自分と違い、今は、多くの人が、個人として、親として、あるいは社会人として、あるいは人生の晩年を迎えて、様々な悩みや苦しみを抱えつつ、懸命に生きていると理解しています。もちろん、相手の悩みなどの奥深くまで理解しているかと言われると、そんなことはないのですが。

 

弁護士として独立してから

2013年に弁護士として独立してから、当初は、刑事事件・少年事件を中心に扱いました。 そもそもにおいて、自分自身が、一歩間違えれば犯罪をしかねない人間だったという思いがありました。

たしかに、犯罪は憎むべきものです。

しかし、罪を犯してしまう人の多くは、人生の壁にぶつかり、絶望して、挫折した人であると感じていました。私が生きることに絶望していたように。

挫折し、自暴自棄になってしまうと、どうでもよくなってしまうのです。どうでもよくなってしまうことは、犯罪に走ってしまう、一つの要因であると思います。

そういう人が、また人生をやり直す、再スタートできることの手伝いができればと思っていました。

少年事件で会う少年は、(かつての自分のように)親の愛情を理解していない人が多かったと思います。しかし、親が見放していない限りは、回り道しても必ず立ち直ると感じました。

 

仕事をしていく中で、刑事事件や少年事件以外の案件もして欲しいと依頼されることが多くなりました。

どんな相談にも、懸命に生きる人の喜怒哀楽が根底にあります。夢があり、理想があり、それを妨げる現実があり、苦しみがあります。

おこがましいですが、実は人ってそれほど変わりはなくて、種類は違えど、人それぞれが喜怒哀楽を抱えながら、人類が始まって以来ずっと生きてきたのです。

それは、2000年前、3000年前から一緒ですし、今後1000年、2000年たっても不変であると思っています。自分もそんな未熟な人間の一人です。

 

「家族」というキーワード

自分自身を振り返ってみると、自分という存在にとっての根っこ、根本部分、あるいは自分の人生に最も大きな影響を与えた存在は、両親であると改めて感じています。

いかに自分自身が両親から形成されているか。

そもそも、父母なくしてはこの世界に誕生することも無かったのですから。

そして、結婚し、子どもを持ってからは、今ある幸福は、妻と、子ども達に支えられていると感じています。

このように、「家族」こそ、自分の人生にとって根源にあるものです。そして、それは多くの方々にとっても同様ではないでしょうか。

東大に合格しても、自分は全く幸福ではありませんでした。

家族の幸福無くしては、社会的な「成功」などなんと意味に乏しいものか、と感じます。

売上が何百億円もあるような大きな会社を経営していても、配偶者との不和、子どもについての悩み、あるいは子ども達が不和で自身の死後に子ども達が遺産相続で揉めてしまいそうな状況、それでは本当の幸せは得られません。

不幸にして離婚したり、子どもが少年事件を起こしてしまったり、あるいは兄弟が遺産の相続で揉めてしまうことがあっても、その紛争を解決し、再出発を支援していきたい。

また、そもそもなのですが、究極の理想は弁護士なんか不要な世の中だと思っています。

犯罪が無くて警察が不要な世の中、病気が無くて医者が不要な世の中が理想であるように。

幸せな夫婦、幸せな子ども、そして幸せな親子きょうだい関係が増えて欲しいと思っています。そのことに、自分が強みを有している領域で、関われたら良いなと考えています。

特に注力する分野として、当事務所が、相続事件や離婚事件という分野をあげて、その法律と税金の問題に特に注力している理由は、「家族」こそキーワード、という想いからなのです。

 

目指すのは、身近な人の幸せ

夢が小さい、と言われてしまうかも知れませんが、私が目指しているのは、とても身近なことです。

妻には、「あなたと結婚して良かった」と言われる夫でありたい(ノロけですが、頻繁にそう言われています。妻は、どこにでもいる普通の凡人なのですが、僕にとっては世界に一人しかいない特別な人です。ノロケですみません)

子ども達には幸せになって欲しい(できれば、お父さんの子として生まれてラッキーだったと思って欲しい)。

一緒に働く仲間には、「同じ事務所で働けて幸せだ」と思われる存在でありたい。そのご家族にも「良かった」と思ってもらえる事務所でありたい。(先日、パートとして働いてくださっている方との面談の際に、ウチの事務所に来れて幸せと言ってもらえたという出来事があって、それは本当に凄い嬉しかったです!)

仕事を依頼してくださる依頼者には、「淡青税務法律事務所に頼んで良かった」と思われる事務所でありたい。

自分が目指しているのは、たったそれだけです。

そして、自分が死んだ後でも、この事務所が、同じように、働いてくれている人やそのご家族が幸せになり、依頼者の方やそのご家族も幸せになってくれる事務所であってくれれば、ちょっとは自分がこの世の中にお役に立てたのかなと感じられます。

天下国家のことを考えておらず小さな話なのですが、自分が本音で目指しているのはそれだけなのです(将来、もっと色々考えるかも知れませんが、2023年現在の偽らざる気持ちです)。

 

誰かの力になれる喜び

 

またまた、B‘zというアーティストに「光芒」という(知る人ぞ知る名)曲が歌があります。

この歌の最後の歌詞は、

 

光を求め 歩き続ける、

君の情熱がいつの日か

誰かにとっての

光となるでしょう

誰かにとっての

兆しとなるでしょう」

 

そんな歌詞です。稲葉浩志さんの詞です。

 

今、これを読んでくださっている方の中には、困難の渦中にいらっしゃる方もいるかもしれません。

しかし、そんな困難の中にありながら歩き続ける貴方の姿勢そのものが、誰かにとっての光となる筈です(私自身、そういった方々の姿勢に、勇気づけられ、励まされたことが何度あったことか、数え切れません)。

 

私も、今も、うまくいかないことや悲しいことなどもありつつ、喜びを求めて歩き続けています。誰かの力になれるための、自分自身の挑戦でもあります。

 

それが、これを読んでくれている人のうち、たった一人にでも、希望を抱いてもらえる光となれるのであれば、この長い駄文を書いた意味もあったものだと思えます。

そうして生まれた光が、また後に続く他の誰かへの光になってくれるのであれば、とても嬉しいです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

ABOUT ME
弁護士 中澤 剛
相続と不動産の法律と税金を専門に扱う千代田区内唯一の弁護士 兼 税理士。 相続紛争など、家族にまつわる紛争案件と紛争案件の経験を生かした紛争予防(相続紛争や認知症によるトラブルの生前対策、税金対策)が強み。 「幸せの土台は家族関係」という想いから、日本中に感謝と敬意のある家族関係が増えることを目指して活動中。 息子(10歳)&娘(7歳)の父。 2010年弁護士登録。2018年税理士登録。 東大法学部卒。東大ボート部出身。淡青税務法律事務所所長。 倫理法人会、中小企業家同友会所属。
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